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第三編 東京専門学校時代後期

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第八章 校勢の進展(下)

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一 量的躍進と質的整備

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 明治二十四年以降二十九年に至るまで、学苑の学生数は二十三年を下回り、漸く三十年になってほぼそれに匹敵するまで回復を見せたが、以後は連年増加の一途を辿り、三十四年には、二十三年の二倍を超す記録を樹立した(第十八章第十七表参照)。この間に、このような量的膨脹に止まらず、学苑はまた質的にも充実して、大学への移行を目差して邁進したのである。

 三十年七月発行の『早稲田学報』(第五号)には、「本校来学年改良科目」と題する記事があるが、それによると、第一に、入学試験の程度を高くして、無試験入学を認める尋常中学校卒業生以外には、国語・漢文・歴史・数学を試験する外、英語政治科および文学科入学志望者には英書の試験を行い、第二に、英語政治科の英書を増加するとともに、刑法・民法・国際私法等法律科目を増強する外、「文章の熟達を図る為め第一年に論文演習、第二年及第三年級に学理上の論文を練習」させ、また第三年級には卒業論文を復活させ、第三に、邦語政治科には、英語政治科と同様、法律科目を増強するとともに、「参考課として簡易の英語を正課中に加へ」、第四に、法律科および行政科は、「今や調査結了の期近きにあらむとする法典調査会査定の方針に則り課目を編制〔し〕、従て担任講師も各科専門の士を増聘」するとともに、「参考課」として、英・仏・独の法律書(ただし来学年は英のみ)を授け、第五に、英語学部は第四年級までを来学年は設置(将来第五年級まで設置予定)、第三年級を終えた者には、英語政治科および文学科に入学を認めるというものであった(一二一頁)。変化の中で特筆せらるべきものは、兼修英語科がこの年から全く消滅したことと、法学部その他の法律科目が増強せられたこととであろう。後者に関しては、一部司法官僚の動きとの関連も無視できないと考えられるので、次号の『早稲田学報』(明治三十年八月発行第六号)の記事を引用しておこう。

法律的大学の企画本校は大学たるの実に副はんが為め諸種の学科を具へ、尚漸次増加せんと尽力中なるが、茲に近頃一種の大学を創設するの目論見あるよしにて、そは府下に現存せる各私立法学校を合併して法律的大学とも云ふべきものを起さんとするに在り。司法省部内に於ても此の企てを保護奨励する由にて、本校へも照会ありたれども、本校は断然之に応ぜざりし。其の理由は(第一)本校既に実際的私立大学の地歩を占むる今日に於て、更らに新規創業の困難を冒して他の大学を起すの面倒を見るに及ぼず。(第二)且本校には法律科ありと雖も法律科は本校の全部に非ず。政科文科英科の各部と聯絡して一貫の主義を有するが故に、若し其一を欠損することあらんか、他の学部に非常の影響を及ぼすべし。(第三)斯学をして権勢の覊絆を脱し、以て社会に独立せしむるは本校の主義なるに、今ま官辺の保護奨励を仰ぎ、其の庇蔭に由りて漸やく維持を計るが如きは、本校実に其の必用なきのみならず、最も潔しとせざる所たり。

右企画の立消斯かる次第なるを以て、本校は初めよりして各学校合同の交渉に応ぜざりしが、コハ偏へに本校の自信を執るが為めにして、敢て他人の企画を左右せんとするものに非ざれば、全く傍観の地位に立ち居たり。然るに他の諸学校何れも創立の趣旨に於て、又た校勢の盛衰に於て、将た資本の多寡に於て、夫れぞれ相違する所あり、之を打て一丸となさんこと頗ぶる困難なるよしにて、交渉談は七月下浣より本月上浣に渉り、三、四回を重ねたる末、立消えとなりたるよし。

本校の法律科今日の企画一たび破れてより、各私立学校は何れも競ふて次学年の準備に怠らず。中に就て本校の法律科の如きは、本年七月学期未だ終らざる前よりして、早く既に諸種の拡張準備を成し畢りた〔り。〕……而して拡張の為め新たに招聘されたる講師は穂積陳重梅謙次郎、宮崎道三郎、岡野敬次郎、戸水寛人、植村俊平、山田喜之助、朝倉外茂鉄等の博士・学士諸氏なり。 (七二頁)

 次いで三十一―三十二年度の学科配当上の大きな変化は、文学部に史学科が新設せられたことであり、それに伴い、文学科にも若干の変化が見られ、両科とも「尋常中学及師範学校教員たるに適」するように、学科配当は次のように定められた。

第八表 文学部課程表(明治三十一年九月)

文学科

史学科

(『早稲田学報』明治三十一年八月発行第一八号 七六頁)

そして史学科は、三十二年三月より、浮田和民内田銀蔵とのセミナーにより、大いに特色を発揮することになった。『早稲田学報』(明治三十二年二月発行第二四号)の「早稲田記事」はこう報じている。

史学科に増課来三月(後期)より史学実習の課を設け、知名の史家を聘し攻修せしむ。先づ浮田和民氏は西洋歴史を、内田銀蔵氏は国史を担任する筈にて、其方法は講師先づ出題し、其参考書を示し、而して研究したる結果を講師学生交々批評する仕組なれば、史学を研鑽する上に於て一層趣味あるものなり。 (五頁)

 浮田和民は、熊本洋学校、京都同志社英学校に学び、明治十九年新島襄から同志社に招聘された。二十五年エール大学に留学、同志社教師を経て、東京専門学校に迎えられ、爾来昭和十六年に及ぶまで早稲田で教鞭をとった。浮田は、十八歳にしてキリスト教の洗礼を受けた信念の堅い民主主義者で、高いヒューマニズムの見地から文明批評を行った。日露戦争の折、捕虜は不名誉にあらずとの論をなし、また明治末年に南北朝正閏論の湧き起った時、北朝正統説を支持したり、或いは『日米非戦論』『満洲問題と日米親善論』『日米愚戦論』等を著し、論客としても有名である。

 内田銀蔵は明治二十二年東京専門学校邦語政治科を卒業し、次いで帝国大学国史科に学び、三十二年以来、東京帝国大学で日本経済史を担当したが、我が国で日本経済史を学問として体系づけた最初の人である。三十五年外遊。帰国後広島高等師範学校、次いで京都帝国大学の教授となり、国史科創設のために努力したが、大正八年病没した。

 更に三十二年には史学科に久米邦武が招聘された。我が国古文書学の開祖と言われる久米は、二十四年発表の「神道は祭天の古俗」が神道家その他保守派の攻撃の的となり、翌年帝大教授を非職とされるに至った。大隈は、佐賀の同輩の久米を自らの傘下に招じ、学生の訓育の外、『開国五十年史』の編纂などに当らせた。久米は八十歳を越した大正十一年まで早稲田の教壇に立っている。次いで三十四年からは、独学の偉才吉田東伍も史学科の陣容強化に貢献した。吉田は『大日本地名辞書』の編者として不朽の名を残したが、大正六年学苑の維持員・理事に推されたものの、翌年五十三歳で世を去った。

 さて明治三十一年にあって特筆すべきは、学校の社団法人化と、皇太子殿下(大正天皇)の御来校である。前者は十月十五日付で民法に基づく学苑の社団法人化の認可申請を東京府庁に提出しているが、最初の社員は大隈英麿鳩山和夫高田早苗天野為之坪内雄蔵市島謙吉の六名であった。この願書は十一月二十六日付で認可があったので、十二月十二日区裁判所淀橋出張所に登記の手続を完了した。

 皇太子殿下の御来校は十二月四日で、行啓の目的は大隈伯邸にあったが、帰途本校および早稲田中学校へもお立寄りになるというので、両校挙げてお出迎えの準備をなし、当日は両校の教職員学生ら千八百余名が中学校門前から大隈邸までの沿道に整列して奉迎申し上げた。供奉する者は勿論宮内庁関係の高官であるが、その他大隈の旧藩主筋に当る鍋島直大、同直彬も陪席の光栄に浴した。午前十時半御着邸。殿下は、大隈伯に対し特に信頼の念が深く、歓談に、庭園散策に、十分に時を過ごされたため、還啓の予定時刻が迫り、遂に両校へのお立寄りもなく、午後三時両校の奉送を受けてお帰りになったが、両校の教職員ならびに学生一同の失望は絶大なるものがあった。

 三十二年に入ると、二月二日の評議員会は先ず次のような重大な決議をした。

一、本月限リ英語学部ヲ廃シ、三月ヨリ新ニ高等予科ヲ設ケ、英語政治学部、文学部史学科ニ入ルノ予科トナシ、修業年限ヲ一ケ年トシ、之ヲ二期ニ分チ、九月ヨリ翌年三月迄ヲ前期、四月ヨリ七月迄ヲ後期トナスコトト定ム。

(『早稲田大学沿革略』第一)

 夙に市島幹事は、三十年の卒業式において、「中学の設備は既に出来ましたが、これと本校専門諸科と脈絡を通ずるには、中間に高等予備科を置くの必要が御座ります。」(『早稲田学報』明治三十年七月発行第五号一〇九頁)と指摘したが、翌年七月の評議員会では、この件は決議にまで至らなかったのを、漸くここに宿題が解決されることになったのである。同月の『早稲田学報』(第二四号)には、この高等予科新設に関する詳しい記事が載せられている。

高等予科の新設本年二月限り英語学部を廃し、来三月より高等予科を創設せり。其目的、課目、講師等左の如し。

一、文学科、史学科及英語政治科に入るの予備として、本年三月より高等予科を設け、主として英語学を教授す。

一、本科修業年限を一年と定め、学年を二学期に分ち、前期を九月より三月迄とし、後期を四月より七月迄とす。

一、尋常中学校及同等程度の学校を卒業したる者に限り無試験入学を許す。

一、本科を卒業したるものは、無試験にて文学科、史学科及英語政治科に入るを得。

一、学費は、前期金拾円五十銭、後期金六円とす(即ち毎月分納金壱円五十銭)。

来三月よりは学年中途なるを以て専ら英語学の力を養はしめんとす。従て前記課程表と多少の相違あるは又免れざるなり。即ち其課目及講師左の如し。

(「早稲田記事」三頁)

 さて、この高等予科新設、英語学部廃止は、学苑創設以来のアキレス腱とも言うべき英語学習問題に、漸く結着をつけたものと見ることができよう。第十五年祝典の際の大隈の言を引用することによりもう一度記すことを許されるならば、大隈が学問の独立を唱えたのは、「今日の如何なる高尚の学問も日本の文字と言葉で言直すことが出来ぬ道理はないと思〔ひ〕……十分に学者達がそこに力を致したならば、必らず日本の学問は……日本語で講義をすることが出来る……と考」えたからであり、小野梓の率いる鷗渡会員の賛同を得て、東京専門学校が開設された結果、「此邦語を以て高尚なる学問を教へるといふことの端緒が現はれた」のであった。しかし「それならば何ぜ英語を教へるかといふ論があるかも知れぬが、是は今日でも亦将来にも、此英語其他の学問を多少やるのは必要である。……学問の研究の為めには随分此外国の言葉を学ぶといふ必要は、今日でも又将来でもある。学問の充分にし、独立した上にもある。」(『早稲田学報』第五号六―七頁)そこで、創立当初から英学科が設けられて、希望学生に英語を兼修させ、その後名称こそ兼修英学科、英学兼修科、英語兼修科、兼修英語科と幾変遷したけれども、英語が必修科目なり随意科目なりとして各専門学科の学科配当中に組み込まれるまで存続したのと同時に、十八年には、そのほかに専修英学科が設置され、これまた名称は、その後英学本科、英語普通科、専修英語科と変化したが、専ら英語を中心として「普通学」を授けるのを使命としたものから、英語専門諸科の予備門へと質的転換を遂げた後、二十九年には、実用英語の教授を主目的とする独立の英語学部へと発展的解消をしたのであった。この最後の短命な英語学部を暫く別とすれば、これら両種の英語科の歴史は、学苑の学生に正規の英語教育を経ない者が多数を占めていた結果の所産に外ならない。三十三年の卒業式で高田学監は、当時の学生数一千十名中、中学卒業生は四百八十一名であると言明している(『早稲田学報』明治三十三年八月発行第四三号三三頁参照)ところを見ると、創立後十八年を経て、なお半数に達していないのであり、この事実が、中学卒業生以外の学苑入学志望者の学力補強を目的とした従来の予科のたび重なる不成功とともに、両種英語科のめまぐるしい変転を生み出したのであった。ところが、たとえ学苑とは一応別個の経営であるとはいえ、早稲田尋常中学の創設により、中学卒業程度までの英語教育については、肩の荷の半ばを下ろすことができるようになったのを契機として、予期の成果を期待しにくいと感ぜられる英語学部を再び以前の専修英語科的性格のものに復帰させ、英語政治科なり、文学科や史学科なりの予備門であることを明確に表現する「高等予科」の名称を冠したのが、今次改正の狙いなのであった。

 ところで『早稲田大学沿革略』第一の三十二年六月十二日の条には、各学部講師会において、「高等予科ハ、九月ヨリ翌年三月迄授業ヲ開始セズ。」と決せられたとの記載があり、更に、翌三十三年三月四日の条には、「高等予科授業ヲ開始ス」と記されている。三十三年七月の「東京専門学校規則一覧」(『早稲田学報』臨時増刊第四一号)に、高等予科が四月から七月まで開設される旨、二ヵ所に明記されている(四頁、二九頁)ところから見て、三十二年および三十三年には、英語専門科の予備門としての高等予科は、当初の決定の修業年限一年を半年に短縮実施されたものと推定され、この決定は三十四年以降の大学部の予備門としての高等予科を一年半と定めたことと無関係ではなかろうと想像されるのである。

 さて、三十二年四月五日、「文部省令第二十五号」によって、公立私立学校・外国大学校卒業生の教員免許に関する規定が定められた。従来、中等教員免許に関して無試験検定の取扱いを受ける者は官立学校の卒業者に限られていたが、以後私立学校卒業者らに対しても、この途が開かれたのである。東京専門学校文学部は、この省令の適用をうけて、同年の五月、哲学及英文学科、国語漢文及英文学科、史学及英文学科の三学科に再編成し、文学部に限り、左の如く卒業を半年延長するよう修正して、文部省に許可を出願した。

修業年限ヲ三学年ト定メ、各一学年ヲ一級ニ充テ、其学年ハ九月ニ始リ翌年七月ニ終ル。又学年ヲ二学期ニ分チ、第一期ハ九月十一日ヨリ二月末日ニ至リ、第二期ハ三月一日ヨリ七月二十日ニ至ル。但シ三年級二限リ三期ニ分チ、第一期ハ九月十一日ヨリ二月末日ニ至リ、第二期ハ三月一日ヨリ七月二十日ニ至リ、第三期ハ九月十一日ヨリ二月末日ニ至ル。

(明治三十二年五月六日付「進達願」および「許可願」添付書類、当編集所保管『明治三十二年五月文学部許可ニ関スル書類東京専門学校』所収)

これに対し、七月七日付で教員免許無試験検定(哲学及英文学科=倫理・修身・教育・英語、国語漢文及英文学科=国語・漢文・英語、史学及英文学科=歴史(日本歴史万国歴史)・地誌・地文・英語)取扱いが許可され、三十二年八月以後、学苑の学生募集広告には、文学部について、「本学部本年文部省令第二十五号に依り中学校・師範学校・高等女学校の教員資格を許可されたるを以て、従前の如く文学・哲学を教授するの外、右諸学校の教員養成を目的とす。」と特筆されるに至った。ここに新しく定められた修業年限三ヵ年半は、大学部開設以後の専門部歴史地理科・国語漢文科・法制経済及英語科によっても継承され、教員免許無試験検定の取扱いは、これらの卒業生に対しても、大学部文学科卒業生に対してと同様、適用されたのである。

 なお、右に引用した「許可願」の添付書類には、定員に関して次のような朱筆が加えられている。

一学級ノ定員ヲ五十名以内トス。但シ哲学及英文学科ニ於ケル倫理・教育学・英語、国語漢文及英文学科ニ於ケル国語・漢文・英語、史学及英文学科ニ於ケル歴史・地理・英語等ヲ除クノ外ハ、五十名以上ノ生徒ヲ合シテ同時ニ教授スルコトアルベシ。

文学部に関するこの厳格な定員規程は、三十三年七月の「東京専門学校規則一覧」(『早稲田学報』臨時増刊第四一号)にも記載され、修業年限の半年延長とともに、文部省の行政指導があったものと推定せられる。

 また徴兵令特例は、従来法律科学生にのみ認められていたが、三十二年十二月から、「文部省告示第百六十三号」により、本校全科に適用されることになった。

 学苑の学生が右のように種々の特典を享受するようになったことは、その反面、学生に対する学内での自由放任に対する反省をもたらした。学苑の校則には、既に十九年の早くから「教場規則」が包含せられている(『東京専門学校校規・学科配当資料』資料15参照)が、それがどれほど厳正に遵守されていたかは疑問であり、三十二年九月新学年開始当日、左のような「学生教場心得」を掲示したとの記事がわざわざ『早稲田学報』に載せられているのは、寧ろ違反が横行していたのを裏書するものであるかもしれない。

一、洋服又は袴を着用すること。

一、喫煙厳禁の事。

一、授業中は退席を許さず。若し不得止事故ありて退席せんと欲する者は、講師の許可を請ふべし。

一、履物は、靴又は草履に限る。

一、机卓、腰掛其他の器具を移すことを許さず。

右違犯者は、停学又は退校を命ずることあるべし。

(『早稲田学報』明治三十二年十月発行第三二号「早稲田記事」 三九頁)

 この「学生教場心得」は、三十三年三月二十七日の評議員会で改められて「教場規則」とされた。評議員会の記録では、「教場取締規則」となっているが、告示されたものは「取締」の二字を削っている。

教場規則

一、教場ニ在テハ、総テ謹慎ヲ旨トシ粗暴ノ挙動ヲナスベカラズ。

二、教場三在テハ、雑談又ハ喫烟ヲ禁ズ。

三、教場ニ出ヅルトキハ、必ズ洋服又ハ袴ヲ着用スベシ。

四、授業中ハ退席ヲ許サズ。若シ不得止事故アリテ退席セント欲スルトキハ、講師ノ許可ヲ請フベシ。

五、教場二於テ授業ヲ始ル前二、講師ハ出席者ヲ点呼シ、其勤惰ヲ記載スル者トス。

但シ、時宜ニ因リ其勤惰ヲ試験成績ニ参酌スルコトアルベシ。

六、三日以上欠席セント欲スルトキハ、其旨ヲ保証人ヨリ届出ヅベシ。

七、何等ノ名義ヲ以テスルニ拘ラズ引続キ一ケ年以上欠席シタル者、又ハ正当ノ理由ナクシテ一ケ月以上欠席スル者ハ除名スベシ。

但シ、無届欠席一ケ月ニ渉ル者ハ、本校ヨリ其旨保証人ニ通知シ、尚ホ無届欠席スルトキハ除名スルコトアルベシ。

八、其月ノ定期迄ニ学費ヲ納メザル者ハ、教場ニ出席スルヲ許サズ。

九、学費ヲ納メズシテ屢々教場ニ出席スル者ハ、退校ヲ命ズルコトアルベシ。

十、学年試験未済者ニシテ猥リニ次学期ノ授業ニ出席スル者ハ、時宜ニ因リ退校ヲ命ズ。

十一、学費ヲ納メズシテ授業停止中ト雖モ、未納学費ヲ納ムルトキハ学期及ビ学年試験ニ出席スルヲ得。

(同誌臨時増刊第四一号「東京専門学校規則一覧」 三六―三七頁)

内容そのものは、例えば三十年八月改正の「東京専門学校規則要領」中の「教場規則」と殆ど変りがないが、たとえ「取締」の文字が削除されたにしても、学生に強く自粛を訴えようとした当局の態度には、大きな差があるものと考えざるを得ず、来たるべき大学部予備門としての高等予科発足後の規則励行強制への当局の決意は、漸く固められたのであった。

 三十三年二月七日(『早稲田学報』明治三十三年二月発行第三六号六七頁の「早稲田記事」には「去る九日」と記されているが、暫く『沿革略』の記載に従っておく)、臨時評議員会が大隈邸で開かれた。市島、高田は交々立って、本校の学生数も益々増加し、各学部も多数の講師を招聘して内容も充実して来た現状を述べ、この上はかねての懸案である大学部の設置と、これに伴う本校法人定款の改正、すなわち従来定数一名の理事を二名に増し、中一名を校長に、他の一名を学監とし、また従来の幹事を会計監督に改むる件を提案し、その何れも可決された。その結果、

校長(理事)鳩山和夫 会計監督 市島謙吉

学監(理事)高田早苗 幹事 田中唯一郎

がそれぞれ選ばれて、その任に就いた。そして法人定款変更認可申請は、同月十四日文部省に提出され、三月二十三日に認可された。またこの臨時評議員会では「職務章程」ならびに職員の選定等も審議され、何れも原案通り可決せられた(『早稲田大学沿革略』第一)。その「職務章程」は次の通りである。

東京専門学校職務章程

第一章 校長学監及会計監督

第一条 本校に校長一名を置き、校務を総理せしむ。

第二条 本校に学監一名を置き、校長を補佐代理し校務を監督せしむ。

第三条 本校に会計監督一名を置き、本校の財務を監査せしむ。

第四条 校長、学監及会計監督の選任は、校規の定むる所に拠る。

第五条 校長、及学監の任期は三ケ年とし、会計監督の任期は二ケ年とす。

第二章 幹事

第一条 本校に幹事一名を置き、校長の指揮に従ひ学生を管理し、庶務会計の事を掌らしむ。

第二条 幹事は、校長之を任命す。

第三条 幹事の任期は三ケ年とす。

但し、任期中と雖も、校長之を解任することあるべし。

第四条、第五条(略)

第三章 寄宿舎長(略)

第四章 図書館長(略)

第五章 会計規程(略)

(『早稲田学報』第三六号「早稲田記事」 六七|六八頁)

右の役職員の中で、寄宿舎長に関しては第十七章に、図書館長に関しては第十三章に、それぞれ後述するが、三十二年四月東京専門学校出版部から刊行された村松忠雄著『早稲田学風』には、「図書館」の項が設けられ、「洋書数九千九百八十五部、和漢書壱万〇九百三十四冊、合計弐万〇九百十九部」(三二頁)と記述されているにも拘らず、その管

第九表 東京専門学校保管図書数一覧(明治三十三年)

(『東京専門学校明治三十三年度報告』 一五―一七頁より作成)

理者は、図書館長ではなく、図書室長である(『東京専門学校明治三十三年度報告』一五頁参照)ことによっても推察されるように、その時点では、図書館は通称で、図書室が正しかったのであり、一年足らず後に初めて、図書館・図書館長が正規の名称となったのである。三十二|三十三年度の報告書には、恐らく年度末の数字と思われるが、学苑の図書館によって保管される「本校の購入と世上篤志者の寄贈と又別に本校職員・校友其他蔵書家所蔵の書籍」の数について、第九表(七四七頁)のような数字を登載している。

二 終幕時の第二次学部制

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 さて、高田の学監就任後、大学昇格への準備の重要案件が可決されたのは、三十三年七月十一日、大隈邸で開催された評議員会であった。大学部設置案については、同月発行された『早稲田学報』第四十二号が、次のように報じている。

本校は来三十五年九月大学部を開始する計画中なるが、設備の大要を掲ぐれば左の如し。

一本校の学科組織を変更し、政学部・法学部・文学部を大学部・専門部に大別せんとす。是れ時運の趨向に鑑み、程度を進め改善を施さんが為なり。

一大学部に政学科・法学科・文学科を置き、専門部に政治科・法律科・行政科・国語漢文科・史学科を置き、外に高等予科及研究科を置くものとす。

一修業年限は大学部、専門部各々三ケ年とし、高等予科を一ケ年半とし、研究科を三ケ年以内とす。

一入学程度は、大学部は中学卒業程度の学力を有し、本校高等予科を卒業したるもの、専門部及び高等予科は中学卒業程度の学力を有するものたるを要す。乃ち専門部は直接に中学と連絡せしめ、大学部は中間に高等予科を挾んで中学と連絡せしむ。研究科は本校の課程を終へたるものにして、既習の学科に就き尚深邃なる研究を為し、傍ら広く外国語の智識を養はんと欲するものの為めに設く。

一大学部は専ら英独仏の原書によりて各専門学を研究する所とし、専門部は専ら邦語を以て修学せしめ、両部の学生中特に志望者に支那語を授く。

一本規定実施以前の各学部得業生又は専門部得業生にして、相当の学力試験を受け及第したるものは、大学部得業生たるを得せしむ。 (「早稲田記事」 八一頁)

 なお、この会議では、その他次のような事項が同時に決定された。

一、評議員ヲ新ニ嘱託スルコト。

二、留学生ヲ海外ニ派遣スルコト。

三、特待生ヲ設クルコト。又、制服制帽ノ規定ヲ設ク。

四、寄宿舎、図書館、教室ヲ建築スルコト。

五、北陸及北海道ニ巡回講演ヲナスコト。 (『早稲田大学沿革略』第一)

 このうち第二項の留学生については、後述(九二六頁および九二八頁)する如く、坂本三郎(二十一年邦語法律科卒)、金子馬治(二十六年文学部卒)の両名を、最初の留学生に指定し、九月ヨーロッパに派遣することを定め、翌年四月には田中穂積(二十九年政学部卒)をアメリカに留学せしめることも併せて決定した。

 この留学生派遣決定に関し、その背景となった風潮について、ここに一瞥を加えておこう。それは当時、欧米諸国はもとより、我が国でも大いに論議を呼んだのが「二十世紀問題」であった。すなわち、一九〇〇年を以て一時期を画し、一九〇一年から二十世紀とするか、一九〇〇年を以て始めとするかにあった。これを我が国の年暦によって数えれば、明治三十三年から二十世紀が始まるか、はたまた三十四年からであるか、どちらかを定めるのである。その経緯についてはこれを省略するが、結局世界の大勢は後説、すなわち一九〇一年を始めとすることに落ち着いた。我が学苑における大学昇格の年は、この何れの説を採るにせよ、既に二十世紀の初頭であることには間違いはないが、とにかく学苑当局が新しい世紀を記念する行事として、画期的とも言うべき留学生派遣を定めた先見の明は高く評価されなければならないだろう。

 また学生の制服制帽については、三十三年十月発行の『早稲田学報』(第四五号)に、次の記事が発見される。

学生制服制帽本学年より実施し、制帽の形は英国ケンブリツチ大学に摸し、之れにモール製の専の字を徽章とし、制服は背広洋服に本校徽章の釦を付したるものなり。 (「早稲田記事」 一〇一頁)

 更に三十四年四月二十三日、新発足した高等予科に夏服の制が定められて、鼠色のセル地かまたは小倉木綿を服地とし、形や釦もいわゆる学生服に統一し、すべて同一のものを着用せしめることにした。製作期間や費用の調達も考慮されたであろうから、その準備期間を一ヵ月余とし、六月一日から一せいに制服着用を励行した(『早稲田大学沿革略』第一)。

 学事報告や年表は、何れの学校の歴史を語る上においても欠くべからざる重要な資料の蓄積であるが、ややもすれば単調に失し興味を殺ぐ恨みなしとしない。故にここに一つの挿話を採録しておこう。それは三十三年七月十五日、第十七回得業証書授与式が行われた当日、戸塚、早稲田、鶴巻、山吹町の町民が、各戸に日章旗を掲げてこの式典を祝ったのである。学校あるところ学生町あり、それはあたかも神社仏閣のあるところに門前町ができるようなものであった。本校周辺の住民は、なにがしかの商いをなしつつ生計を保っているのであるが、それは本校が存在し、本校の学生が各自向学生活を営むからである。それに大隈の地元、世に言う大隈学校の得業式であるのだから、全町民がこぞってこれを祝ったのも当然すぎる現象であった。大隈は野にあれば機会あるごとに庶民に接し、冗談を交しながら庶民の声を聞いた。古老達は言う、「植木屋であろうと、車夫であろうと、皆お友達のように話し掛けて下さったものです」と。こうした大隈と町村民の親近感が、本校を支えた大きな柱であったのだ。学苑の卒業式を地元民が国旗を掲げて祝うという風習は以後毎年の慣習となり、本校近辺はお祭り気分に満たされるようになった。

 大学部開設の詳細は、第十六章に譲ることとし、ここでは、大学昇格の先触れとして、三十四年四月、三十二年および三十三年に設置されていた旧制度下の高等予科とは異る新制度の高等予科が、中学校卒業後直ちに入学して大学部入学までの一年半を修業期間として、発足したことについて、同月の『早稲田学報』(第五二号)より次の記事を引用し、更に半年の間に五百名余りの学生を収容するという成功を収め、徴兵令の特例についてもこれに与ることになったのを付言するに止めたい。

高等予科)

四月八日午後一時開校し、高田学監より種々懇切なる演説ありて後ち、正科なる倫理を坪内博士講義したるが、学科及受持講師左の如し。

(「早稲田記事」 一六八頁)

 また、学苑内に商科を設置するのは、後述する(七六五頁、九八〇頁参照)如く十年来の懸案であり、漸く大学昇格後に開設することについての最後的決定が三十五年初めに行われるのであるが、その別働隊とも言うべき早稲田実業中学が、「卒業後直ちに実業に就き得べき学識と器能を有する人物を教養する」(『早稲田学報』明治三十四年三月発行第五一号「早稲田記事」一六三頁)ことを目的として、三十四年四月、「本校縁故者の発企にて早稲田中学校の内に」(『東京専門学校明治三十四年度報告』二頁)創設された。その「創立の主旨」には左の如く記されている。

教育は国家百年の大計なり。然れども其の制度方法にして宜しきに叶はざるときは却て国運の進歩を阻礙す。夫の小学をして単に中学の階梯たるに留らしめ、若しくは中学をして高等諸学校の予備門たるに外ならざらしむるが如きは、教育制度の最も不完全なるものにあらざるか。学者、専門家を造ることをのみ目的とせば、此の如きも或は可なるべし。尋常普通の国民を教養するの道としては、其の宜しきを得ざるや、論を俟たず。夫れ人各能不能あり、器の大小あり、資力の多少あり。或は小学は卒るを得たるも、事情の中学に進むことを許さざるもあるべく、或は中学を卒りたる後、直に実業に就かんことを欲するものもあるべし。斯る者に対しては、小学校は宜しく小学教育のみにしてほぼ尋常国民たるの資格を養成し、且つ何等かの実業に就き得べき器能と知識とを授けざるべからず。中学校将た之れに同じく、中学程度の教育のみにして、ほぼ中等国民たるの資格を成就せしめ、且つ之れに相応するの器能と知識とを授けざるべからざるなり。按ふに、国家の中堅は、其の社会の中流に位して諸種の業務に従事する、所謂中等国民に外ならず。国家の治乱盛衰の主として中流民衆の教育如何に繋ること、古今東西の事実の明に証する所なり。是に於てか我が教育家中夙に現行中学教育制度の不具を憂へ、其の改善を唱ふる者あり。即ち二種の中学を設置し、一は以て高等諸学校に進むの階梯となし、一は以て専ら中等国民を教養するの用に供すべしと論ずる

ものあり。寔に是れ刻下の最大急務にして、吾曹の切に感を同うする所、又之れを実行するに於て、且らくも因循踟躊すべからずとなす所のものなり。只憾むらくは吾曹微力にして施設完全を期するを得ずと雖も、苟も幾分か社会の時需に貢献し、併せて我が教育制度改善案の参照となることを得ば、早稲田実業中学創立の主旨は竟に空しからずと云ふべきなり。

(『早稲田学報』第五一号「早稲田記事」 一六三―一六四頁)

開校式は四月十四日に挙行され、学長は早稲田中学校長大隈英麿が兼任した。

 大学部・専門部・高等予科の設置を含む改正学則が三十四年四月、『早稲田学報』第五十二号「早稲田記事」に、

本校改正学則認可

明年九月より本校大学部開設と同時に学則全部の改正を本年二月文部省に出願したるに、四月一日同大臣の認可を得たり。

(一六七頁)

と報ぜられている如く、文部大臣の認可するところとなったので、大学部および専門部の三十五年九月よりの開設が本決りとなり、従って、三十四―三十五年度は、東京専門学校の最後の年となったが、早稲田大学と改称後は、既記の設置案(七四八―七四九頁)に記載されているように、専門部は言うまでもなく、大学部にあっても、学部とは呼ばれず、またもや学科の呼称に戻ったので、以下の学科配当は、第二次学部制の最後のものなのである。

第十表 明治三十四年七月課程表

(『東京専門学校校則・学科配当資料』 資料59)

 東京専門学校の最後の学年の開始を前にして、講師数が、「科外講師」を除き、百十六名に上り、十年足らずの間に殆ど倍加しているのは、学生数の倍増を考えれば怪しむに足りないであろう。「特別課」を別にすれば、各学部の陣容は左の如くであった。

政学部)

法学部)

文学部)

高等予科)

(『東京専門学校校則・学科配当資料』 資料59)

 七月十三日、大隈邸で評議員例会が開かれ、これまた久しい間保留されて来た「商学大学部」設置の件が討議されたが、結局尚早論が大勢を占めて、更に調査を続けることで終決した。新学期開始に当り、法学部に実習科を設置し、小山温、鈴木喜三郎の両講師が担当したが、これは先に史学科に設けたセミナーとはかなり距離があるものであった。十月三十一日の社員会では規模の拡大に伴う講堂の新築を決定し、また既に渡米していた塩沢昌貞(二十四年英語政治科卒)を改めて留学生に定めてドイツに派遣し、同時に島村滝太郎(二十七年文学科卒)を選んでイギリスに留学せしむることを決定し、着々として大学へ昇格の布石を打った(『早稲田大学沿革略』第一)。

三 キャンパスの拡充

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 明治十五年に「敷地千五百坪、建物四百六十坪」で発足した学苑が、二十年には建物六五九坪まで拡大したことは、既述の如く第一図(四四八頁)によって明らかであるが、その後の十年間に、校地は三、三六一坪に、建物総坪数は一、〇四四・七坪に膨脹し(『東京専門学校校則・学科配当資料』資料48)、更に三十四年に及んで校地は六、三六一坪と倍増した(同書資料59)ことが記録せられている。これらの土地はすべて、次巻に詳述するように、四十年、創立二十五周年を記念して、大隈が学苑に寄附するまでは、大隈の私有地であり、恐らく無償で学苑に貸付けられていたものと思われる。そこで、東京専門学校時代の終末時においては、校地は、三十五年十月、福田某の所有地を借りて開いた運動場五千余坪その他を加えれば、約一二、五〇〇坪(約四一、二五〇平米)、建物総坪数は、三十四年落成の講堂延坪一八九・六○坪その他を加除して、約一、一一〇坪(約三、六六〇平米)に達していた。すなわち、現在の一、二、三号館の辺りから発祥した学園のキャンパスは、七、八、一〇、一一、一二号館辺りと安部球場までを包含するまでに、二十年間に拡大したのであった。

 さて、この間に新築された建造物の中で先ず第一に挙げなければならないのは、写真第二集21の左端に見られる二本煙突の大講堂である。第二図は、明治三十四年五月二十五日、文部大臣松田正久宛学苑から提出した校舎増築認可願添付図(当編集所保管『明治卅弐年ヨリ同卅六年二至ル文部省関係書類』所収)であるが、それによって知り得られるように、現在の南門

第二図 東京専門学校建物配置図(明治三十四年五月)

付近にあった当時の正門を入って斜左手の現在の四号館の辺りに威風堂々と聳えていた学苑唯一の煉瓦造り二階建の建物がこれである。大講堂は工費約二万円を要したと言われ、大隈が学苑当局者と相談することなしに建築・寄附したと伝えられているが、二十二年五月新築落成時には、二階を講堂、一階を図書室として使用したのであり、創立当時より設けられた名ばかりの図書室は、どうにか書庫・閲覧室・事務室という形を具えるに至った。この大講堂は、三十三年余に亘って学苑の象徴的建造物であったが、奇しくも大隈他界の翌年、あたかもその後を追うかの如く、関東大震災により崩壊の悲運に遭遇した。

 学苑が、その創立の当初においては、私塾的性格を帯びていたことからすれば、この二十年間に、寄宿舎の建築が大問題であったのは説明の必要がなかろう。第一図により、既に明治二十年夏には、三棟の寄宿舎が存在していたことが知り得られるが、『早稲田大学沿革略』第一の二十年の記事に、「是歳寄宿舎ノ一部ヲ改造シテ講堂トナス」とあり、更に二十一年七月には「寄宿舎ヲ増築シテ甲乙丙丁ノ四塾トス(甲乙二舎新築)」と記されている上に、三十年三月にも「是月寄宿舎ノ修築ヲ企テ新ニ二棟ヲ設ク」の記載があり、第二図の四舎の何れがこれらの記事に該当するのか、断定に困難する。しかし、何れにしても、第一図の「甲寄宿舎」が、東京専門学校時代第四・四半期には、教室に転用されており、その他に四棟の寄宿舎が存在していたことは間違いないと思われる。

 先に、第二図が校舎増築認可願に添付されたものであると記したが、この前月に竣工したのは、第二図の西南端に位置する校舎である。この校舎には、階上に二教室、階下に一教室と出版部が置かれ、教室は高等予科によって使用された。出版部(当初は「講義録係」)は、二十四年二月に学内に移ってからは、大講堂と開校時以来の講堂との中間にある建物にあったものと思われるが、その後、大講堂西南の独立家屋に移転、更に新校舎に移動したのであった。

 蛙声を聞く田圃、杜鵑のこだまする杜に囲まれた我が学苑にも、文明の波はいつしか押し寄せて来ていた。東京電燈株式会社江戸川分局が完成すると、学舎の一部の窓から初めてカーボン燈の光が煌々と夜の闇に輝き始めた。教室に電燈が設置されたのは、実に三十四年十二月七日のことであった。これあってか、その前日の六日に緊急指令が出て、夜間宿直規定を定め、即夜これを実施した。関係会社が数度の改良工事や、配線、器具〓とその取付に改善を行ったとはいえ、漏電による失火はその跡を絶たなかったから、文化施設を加えたものの、やはり一抹の危惧不安が当局の脳裏のどこかにあったからであろう。